2. 考えごと

 僕が生活するなかで最もさいなまれる現象が、考えごとだ。これは、文字通り、ただ考え事をしてしまうというものだが、おそらくは「フラッシュバック?」と同じ類のものだと僕は考えている。思うに、両者はグラーデションをなしている。

 

 

2.1考え事の内容

 考え事の内容は特にこれといって決まってないが、悩み事があると優先的にそれになり、しばしば鬱な気持ちを伴う。悩み事がない場合は、自由に考え事をするが、抽象的な事柄が多い。具体的には、思想、社会、言語といった人文分野が多いように感じる。

 考え事には、独り言のように誰にともなく行われるもの、具体的な話し相手を想定して一方的に話すように行われるものの二種類がある。後者は、「かかりつけ医に対して今の症状を話す」とか「誤解されてしまった友人に弁明する」など、実際に話をしたい相手を想定したうえで行われる。*1「フラッシュバック?」を引き継いで、その記憶の中の相手に対して弁明する、言い負かそうとするということも多い。

 ただ、頭でする考え事である以上、考えていることが体系だっていたり論理的に複雑であったりするということは少なく、興味の向くままにトピックを次々に変えながら考え事は延々と行われている。

 

 これが、悩み事を抱えているなどして心理的負荷がかかっている状態では、「どうすればいいんだろう、こうすればいいだろうか、いやきっとだめだ、ああもうどうしようもない」というようにトピックがひとつのことに集中してしまう。そうすると自己評価が低くなったり八方ふさがりなように思えてきて、結果、鬱な気分に引き込まれてしまうことになる。

 僕が学校やバイトを休む時はたいていこの状態に陥っていることが多く、社会生活を送るうえで最大の障害となっている。鬱な気分・悩みごとを延々考えてしまうような状態をいかに予防するか/いかにその状態から回復するかが、現在の僕にとって最大の課題だ。

 

 

2.2 考え事はいつ起こるか

 考え事は、「フラッシュバック?」と全く同じで、①「思考の自由度」が高い②抱えている心理的負荷が大きいというときに起きやすい。ただし、いくつか異なっている点がある。「フラッシュバック?」は一日にだいたい10回程度しか発生しないが、対して考え事は極めて高頻度で起き、かつ終わりにくい。考え事は、例えるなら、ダムの水位が一定以上高さを超えると放水される様子に似ている。一定以上の条件が整うと、とめどなく考え事があふれだし、それはやむ時までやまないといった具合だ。

 

 これら二つの現象の発生の仕方について模式的に表したのが下図だ。縦軸は「思考の自由度」と心理的負荷を総合した「惹起度」を表している。図において考え事は、「惹起度」が閾値以下では発生しないが閾値を超えると発生するという二元的な仕方で発生する。つまり、考え事が発生する/しないは閾値に対する「惹起度」の大小のみによって決定される。比べて「フラッシュバック?」は、「惹起度」ついて二元的ではなく、グラデーションをなすかたちで発生する。

 

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 このように、考え事と「フラッシュバック?」には発生の仕方で相違点がある。

 

 

2.3 考え事・「フラッシュバック?」の予防方法

 「フラッシュバック?」は、上述のとおり数秒で解消されるのであった。対して考え事は待っていても解消されるどころか、延々と行われている。ただ、ここ数年で考え事に対する予防対策を編み出した。また、これらの対策は「フラッシュバック?」の予防にも有効である。

 「フラッシュバック?」や考え事の発生には、「思考の自由度」が関係しており、具体的には「何を考えてもいい、特に注意を払うべきものがない」ような場面で発生しやすいのであった。したがって、これらの現象の予防にはその逆の状況を作り出せばよい。思考錯誤した結果、「ラジオをつける」「本を読む」「音楽を聴く」といった方法が有効であるようで、今のところそれらを実践している。

 例えば、「部屋に一人でいるとき」は現象が発生しやすい場面のひとつだが、僕は部屋にいるときにはラジオと音楽をつけて過ごす。「最寄駅から帰宅するとき」はウォークマンを聞き、「電車の中」では本を読むこともできる。このように、場面にあわせて予防対策のカードを切っていくことで、現象の発生を予防することができるのだ。いまのところ、これらの方法である程度生活が楽になっている。

 

 

3.「フラッシュバック?」と考え事に関する考察

 なぜこういった方法が現象の発生に有効なのかというと、思うに、音声が関係している。まず、音楽・ラジオ・本の全てが、音を伴う行為である(黙読するとき、多くの人は心の中で音読していることが知られている)。また、音楽は場合によるがラジオ・本は言葉を伴う行為である。このように、これらの行為は全て音と言葉、つまり音声に関係している。ところで、多くの人が実感するところだと思うが、考え事は音声言語によって行われている。「○○って××だよな。でも△△って□□だしなあ」といったふうに、心の中で音声言語を唱えることで思考は行われており、それが口に出たものが「独り言」だとも考えられる。

 総合すると、これらの対策は、音声によって行われる考え事に対し、逆に音声を伴う行為をあらかじめ行うことで考え事の発生を防ぐという機能があるようだ。確かに、ラジオ・音楽・本は全て、連続的に音声を得ることができる行為であり、その点でとても優れた行為なのかもしれない。*2

 また、経験の中でわかったことだが、これらの方法は「フラッシュバック?」対策にも有効である。両者の現象を発生しにくくすることから、「思考の自由度」には音声の存在が関係すると言ってよさそうだ。

 

 

 以上、「フラッシュバック?」と考え事について、詳述してきた。ここでは、さらにこれらについて考察を加えようと思う。

 僕がこの当事者研究を行うきっかけとなった『発達障害当事者研究』のなかで、同時者の綾屋も同じような経験について言及している。綾屋は、「起きているにも関わらず滑り込んでくる夢の状態」を「夢侵入」と総称し、このバリエーションとして「フラッシュバック」「ヒトリ反省会」「ヒトリタイワ」「オハナシ」の4種類が存在するとしている。詳しくは割愛するが、前者であればあるほど視覚的記憶・刺激といった要素を持ち、対して後者であればあるほど言葉・意味・フィクションといった要素を持つように思われる。そして、この傾向は僕とある程度似ているように思う。また、フラッシュバックが引き起こされるタイミングや、「ヒトリ反省会」が終わることなく行われるといった点でも、共通する部分がある。

 

発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい (シリーズ ケアをひらく)

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 綾屋は同じ発達障害の人(「自閉圏」)ともこうした経験を共有しているようであり、とするならば、僕のこうした現象も決して僕に固有のものではないのかもしれない。この気づきは本書を読む中で得たが、このことを知って、心から安堵した。僕と同じ人が、同じでなくても同じような人がいる、僕はその中のうちのひとりなんだ、と安心することができた。

 さて、綾屋は夢侵入の4つのバリエーションが、刺激・意味といった要素についてグラデーションをなすとしている。僕も、「フラッシュバック?」と考え事はグラデーションをなすと感じているので、二つがどのような関係にあるかを整理したい(図2)。図では、二つの現象に加えて、「日常生活」と「夢」も加えてある。

 

 

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 考え事のトピックは日常生活で経験する悩みであったり社会に関することであったりして、比較的現実に即している。また、音声刺激によって予防可能だが、「フラッシュバック?」に比べ長い間継続される。対して、「フラッシュバック?」は発生・解決・内容全て無意識的に行われ、映画館のような没入感をもって過去の記憶が再生される。ただ、記憶は数秒程度で勝手に解決されるので、時間的な連続性は低く、一過性だと言える。このように、両者の特徴を整理すると、「日常生活」・「夢」を加えたうえで図の様にそれぞれを並べることができる。

 この図はあくまで感覚的・主観的なものであり、極めてフィクショナルだと言える。たが、これまでの2つの現象を踏まえると、統一的なグラデーションを持つとまでは言えなくても、連続的・スペクトラムと言った語が与えられる程度には共通点を持つはずだと僕は思っている。

 

 また、図では「日常生活」と「夢」を加えているが、これは、単純にこの二つを加えてもグラデーションが崩れず、うまくその間に「フラッシュバック?」と考え事を配置できそうだったからだ。また、こうしてみると、現実と呼ばれるものも、夢と同様に、経験のひとつのバリエーションに過ぎないものだともとらえられる。ちなみに、『発達障害当事者研究』のなかで、熊谷晋一郎は次のように述べている。

催眠術にかかった人が、不合理なパターンを書き込まれ、否応なしにそのパターンにしたがってしまう現象があるが、皆がおなじパターンをとるということも、同じプログラムを刷り込まれている集団催眠とも言えなくもない。・・・多くの人は、多数派の共有している夢から抜け出しにくいために、他の夢が侵入する余地がないのである。

僕自身もこの指摘を支持したい。

 だがそれにも増して、固有の体験だと思っていたものが他人にも共通し、分析の対象にもなり、他人に知ってもらえるかもしれないということに、何よりも嬉しさを覚え、安堵したのだ・・・

*1:想定といっても視覚的に想像しているのではなく、特定の誰かにむかって話しているというだけです

*2:

ここで、聴覚によって外部からもたらされる音声を外音声、頭の中で再生される音声を内音声と呼ぶことにすると、外音声にはラジオ、テレビの音声、聞こえてくる他者の会話などがあてはまる。また、内音声には、考え事をするとき、文字を読むとき、「フラッシュバック?」が起きているときなどに生じる頭の中の音声があてはまる。

 この内音声と外音声が、同時に存在または同時に欠如することを僕は極端に嫌うようだ。その為、誰かが会話しているそばでレポートを書く・音楽を聴きながら本を読むといったことが苦手だ。これを逆手にとって、あらかじめ外音声を存在させることで内音声を生じさせないというのが、これらの対策だと言える。

 とはいえ、こういった傾向は、多かれ少なかれ誰しもが持っていることだろう。「自習室・図書館では静かにする」「店内のBGMは洋楽やインストが多い」といった規範・社会的傾向は、このことへの配慮とも受け取れる。