3. 不注意・衝動性・多動性

 

3.1. 不注意・衝動性・多動性

 「鬱な気分になったり悩み事ばかり考えてしまって学校を休んでしまう」ということの次に困りものなのが、不注意・衝動性・多動性といったADHDに特徴的な障害だ。ただ、幸い僕はまだ学生で就職していないこともあってか、そこまで障害に困っていない。とはいえ心を病んだきっかけはモロに不注意であった(後述)わけで、人生を壊すほどの障害が僕の中に存在していることは確かである。本章では、ADHD的な僕の傾向について列挙し、そのうえで考察をくわえることにする。

 

<忘れ物>

 忘れ物・落し物の類いは大得意だ。飲んだ後の居酒屋に物を忘れる/財布・スマホを落とす/ツタヤの返却を忘れる/バイトの持ち物を家に忘れる・・・枚挙にいとまがない。こういった忘れ物には、地道に対策を講じることしかない。

 

ケアレスミス

 忘れ物の次に多いのがケアレスミスだ。

 僕は高2のとき心を病んで学校を辞めたが、そのきっかけはずばりケアレスミスだ。病的に計算ミスが多かった僕は、男子校の進学校にいながら数学が全くできず、ノイローゼ気味であった。「計算ミスは量を解けば減らせる」とされていたこともあり、結構なオーバーワークを自分に課していた。ところがケアレスミスは減らず、むしろ計算中にさいなまれる「フラッシュバック?」や関係ない考え事、耳に残った音楽が延々と頭の中で鳴り響くといったことに悩まされた(特に「フラッシュバック?」と考え事に関しては、「気づいたら15分経っていた」というようなことが大変多く、そのたびに勉強が遮られた)。

 そんなふうに勉強に苦痛を感じていた僕だったが、所属していた剣道部では会計・事務を務めた。顧問がノータッチである剣道部では、この役職の者が、予算折衝から保護者会の企画、試合の引率・記録、練習試合の調整など、ありとあらゆる事務仕事をこなさなければならないことになっていた。だが、持ち前のケアレスミス力で春の都大会の申込み(この申込みは高体連の登録・段審査を兼ねていた)のスケジュールを間違えてしまったのだ。今思い返しても、嫌な気持ちしかしない。

 これをきっかけとして僕はうつになり、精神病ライフがスタートすることになったのだった。

 

<短期記憶・マルチタスクが苦手>

 短期記憶とは、例えば「スーパーで何を買うか」とか「今日は○○に行った後××に行って△△をする」など、一時的・短期的に行われる記憶のことを言う。ケアレスミスや忘れ物と深く関係するだろうが、僕は短期記憶やマルチタスクが苦手だ。こういった事務的な作業や雑務、色々なことに気を配ったり臨機応変に動くといったことを、僕はすべからくできない。すべからくだ・・・

 特に、買い物や探し物で僕はヘトヘトになる。買い物をするとき、何を買うかを頭に浮かべつつ陳列棚を探し、値段の高い安いによっては臨機応変に買うものやメニューを変え、そうするとあれも買わなきゃ、これも買わなきゃ、あれどこにあるの?あれ買い忘れてない?という具合で混乱してしまう。増して、スーパーでは買い物客が不規則に動いており、そちらにも気を配らなきゃいけなかったりする。買い物って大変だ。

 一方、料理は問題なくこなせる。これは、もしかしたらうちにはコンロが一つしかないせいで作業がマルチタスク化しにくく、混乱しなくて済んでいるからかもしれない。

 

<決められない・混乱する>

 上述の買い物のように、複数の選択肢を前にして決定的な根拠に欠けるとき、決められない・混乱するといった傾向がある。これは、ファミレスのメニューを決める・朝着ていく服を決める・行先へどういう経路で行くか決める・用事を済ませる順序を決める・対立した意見を折衷するといった場面で起きる。

 例えばファミレスのメニューを選ぶ場合、「安い方がいい」「和食の方がいい」「キムチうどんは食べ飽きた」などといった、自分が思う様々な条件とメニューとをすり合わせて、うまくマッチするメニューを選択するわけだが、もちろんマッチするメニューがない時がよくある。そのようなとき、「しっくりくるものがみつからない」と思って、いったいどれを選んでいいのかわからなくなってしまう。そのうち、ファミレスに一緒に来た友人の方は注文がきまり、結局は目に留まったものを選ぶということになる。

 以前は服についてこの傾向が強かったが、現在は「どういう経路で行くか」とか「どういう順序で用事を済ませるか」といったことで混乱しやすい。例えば、「電車を使えば早いがバスの方が節約になり、歩いて行けばさらに節約になるし運動にもなる。さて、時間的には余裕があるがバスは遅延が心配だ。外は寒いし歩くのは面倒だけど運動はしたほうがいいだろう。けれどその後の用事を考えると早めに済ませた方がいいかもしれない・・・」といったふうに、様々な選択肢や条件いつまでたっても決められず、混乱してしまう。

 ちなみに、こういった傾向はどうやら他のADHDの人にもあるようだ。

 思うに、こうした混乱がなぜ起こるかというと、選択肢や比較する条件について目移りしてしまうから、全体的にそれらを把握することができないからだ。メニューにしても経路にしても、選択肢・条件はたくさんあるうえに、条件によって選択肢の良しあしが変わってくる。したがって、何かを選択するときには、選択肢や条件をひとつひとつ調べるよりも、選択肢全体を見通してざっくりと選ぶとか、細かい条件は割り切って捨象するといったことが必要になる。ところが、僕はこういったことに不得手で、そのために決められず混乱してしまうようだ。このような性質は、多動性・論理的跳躍を許さない・断片的に物をとらえる・次々に目移りする・全体を把握できないといった言葉で言い表すことができるだろう。

 

<目移りする>

 前項で少し触れたが、「次から次へと目移りしてしまう」という傾向が僕にはある。もしかしたら、ここで記すことは前項のことと同じことかもしれないが、一応書くことにする。

 朝、家で身支度をするときや家事をするとき、次から次へと目移りして、何も手につかなくなってしまうことがある。身支度するときで言えば、「あの教科書持たなきゃ、帰りに図書館に本返すから本ももたなきゃ、今日は弁当作ったから弁当も持って、ああやばいもう家でなきゃ、もう忘れ物ないかな、そうだ今日は火曜日だからゴミもすてなきゃ」といった具合だ。

 それ以外には、「用事まであと1時間あるな。ここで暇つぶすのも何だし、中古CD探そう、あ、そうだ買いたい本があるんだった、本屋に行こう。いや1時間あったら両方できるかな。いいや、そしたら新宿に出て大きな本屋で本を探すことにしよう」といったふうに、ギリギリまで余裕を詰め込む傾向があり、しばしばこれが遅刻やら余計な出費やら疲れにつながる。よくないことだ。

 

<車の運転ができない>

 「危ないから」という理由で医師に説き伏せられ、挫折した。自分は車が運転できない人間だと知ってとてもショックだったことは言うまでもないが、東京にいれば必要に迫られることもないし、自転車が趣味であることもあって特に困りはしていない。ときに、都合のいい言い訳を信じ込むことも大事だ。

 

 

3.2 僕の中で何が起きているか?

 こうした、社会生活のなかで障害となる僕の様々な性質は、以下に示すモデルで説明することができる。

 

 

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 図は、朝の一場面を例に、注意が及ぶ範囲を一般の人の場合・僕の場合で表している。なお、お椀は注意の及ぶ範囲、つまり、どれくらいの量の対象に注意を向けられるかというキャパシティ(以下、「注意のキャパシティ」と呼ぶ)を表し、丸は注意を向けようとしている対象を表す。

 一般的な人の場合、注意のキャパシティが小さくないため、様々な事柄を気にすることができる。例えば図の場面では、可燃ごみを出すことも、7:06の急行に間に合うように家を出たいということも、そのためには部屋干しをしている暇もないこともおしなべて把握することができる。こうして、一般的な人はスムースに朝の支度を済ませることができる。

 一方、僕の場合、注意のキャパシティが対象の数に対して小さい為に、全ての対象を気にかけるということができない。したがって、他のことまで気がまわらず、例えば「雨で洗濯物を干せない⇒部屋干ししよう⇒どうしよう、もうこんな時間!急行に乗らなきゃ!」となってゴミ出しを忘れてしまうハメになる。だが、目の前のゴミを見たら「そうだゴミ出さなきゃ!」と思うだろうし、ふとしたときにうまくいかない友人のことが頭をもたげ動きがとまってしまうこともある。つまり、注意のキャパシティが小さいがゆえに、注意の対象が次々に変わってしまうのだ(キャパシティ外の対象が多いために、小さなトリガーですぐに対象の入れ替えを起こしてしまう)。

 こうした対象の入れ替えを表しているのが図「僕の場合」の矢印だ。この対象の入れ替わりについて、「よく入れ替わる」と言えば多動性、「勝手に入れ替わる」と言えば衝動性、「注意すべき対象がキャパシティ外にある」と言えば不注意となる。

 このように、図のようなモデルを用いることで、これらの性質を総合的に説明することができる。

 確かに、病気のメカニズムを推理し同定することは医師や研究者といった専門職に任せるべきだ。だが、「不注意・衝動性・多動性」という抽象的な個別の言葉と、症状の列挙のみではADHDについて理解しにくいところが多分にある。もちろんこの分析はフィクショナルな自分語りの域を出ないが、僕個人の性質ついては、このように説明することも可能であると思っている。